私のミュージックポートレイト ~ Vol.04 (石塚 充(合同会社082)編)


明けましておめでとうございます。少し時間が空いてしまいましたが(笑)、新年1発目の「私のミュージックポートレイト」更新です。前回のDJ DIETさんからの紹介で、広島のTV・ラジオの番組制作などを行う「合同会社082」の代表・石塚 充さんに人生の10曲を紹介して頂きました。楽曲にまつわる粒ぞろいのエピソードは面白くもあり、きっと皆さんの共感を得られるものだと思います。是非、最後までご一読を。


―では早速1曲目を。Sex Pistolsの「Holidays in the Sun」。1曲目にふさわしい曲ですね(笑)。
僕、中学生の一時期にこの曲が入ってる『Never Mind the Blocks』をウォークマンで聴きながら自転車で通学してて。他の曲にしようかなとも思ったんだけど、やっぱりこのド頭の曲だなーって。イントロのギターとドラムも「今から行くぜ!」みたいな感じじゃない(笑)!?
―入りカッコいいですよね。ピストルズはどうやって知ったんですか?リアルタイムではないですもんね。
なんか僕ら世代の若い頃って、「洋楽がカッコいい」みたいな風潮がどこかにあって、中学生の頃は、当時のビルボードのチャートに出てくるアーティストを片っ端から聴いていくような事をやってた。まだギリギリレコードの時代で、広島市内にもレコード屋はたくさんあったから、放課後とかよくレンタルレコード屋に行って。借りてはテープに録音して、の繰り返し。その時にピストルズも借りたんだと思う。で、ビートルズとかの王道と一緒に当時ブームだったヘビメタも一緒に借りるの。
―メタルはどの辺のやつですか?
メタルはね、CinderellaとかPoison、あとRatt(笑)。Bon Joviもあった。ちょっと分かり易い感じのやつかな。懐かしいなあ(笑)。
あと、(パンクの)ファッションも入り口としてあったと思う。同じ時期に映画の『シド&ナンシー』をレンタルビデオ屋で借りて観て。「やっぱシド・ヴィシャスかっこええー」みたいな。憧れたねー。広島にこういう洋服売ってる店ないのかなー、とか思ってたもん。

―その頃ピストルズとかのパンクって周りと共有できました?
いや、してなかったね。ウォークマンで学校の行き帰りに聴くだけというか、完全に僕一人のものだったと思う。あの頃みんな何聴いてたんだろ(笑)。
あとね、当時のエピソードとしては、体育祭の準備や制作に関わるような学校内のチームに入ったんだけど、その中の一つ上の先輩にいたのがPANICSMILEの吉田(肇)さん。

―え!!そうなんですか?
吉田さん広島の人なんだよ。で、僕とか学校にいっつも遅刻ギリギリで滑り込んでたんだけど、他の同じような生徒の中にいたのも吉田さん(笑)。でも、すげえ雰囲気ある人でカッコよかったんだよ。誰かとつるんだりとかそういうのがなくて、楽器とか担いだりしてて。
体育祭の頃になると、さっき言った制作チームで当日に使うバカでかい看板とか作るんだけど、その下絵を描くのが吉田さんで、すごい絵が上手いんだよ。今思えばその頃から芸術肌だったんだろうね。で、実は社会人になってFM福岡でADしてた頃、天神のビブレホールで数年ぶりに吉田さんを一回見かけたんだけど声掛けられなかったんだよね。


―2曲目はGuns N’ Rosesの「Welcome to the Jungle」ですね。
いやー、オシャレなやつ入れないと、って思って(笑)。当時ゴリゴリのヘビメタの人はこっち(ガンズ)に行ってないかもしれないけど。何だろ、彼らからはレザーのジャケット着て、長髪でっていうステレオタイプのメタルじゃない感じがして。パンクのようなストリート感もどこかに感じたね。ガンズが出てきた時の衝撃はマジで凄かったよ。
―今だと想像できないですけどそんなにだったんですか?
こんなバンドがいたのか!っていう位の盛り上がり方だった。僕、当時買ってた音楽雑誌で最初知ったんだけど、もうまず名前が完璧じゃん。ガン(Gun)とローズ(Rose)両方入れるって絶対カッコいいでしょって(笑)。しかもこの「Welcome to the Jungle」ってアルバムの1曲目でしょ。これから始まるアルバムって…ヤバいでしょ。全曲良いしね。このアナログ盤って1回発禁になってるんだけど、発禁になる前のジャケもカッコいいんだよね、ストリートっぽくて。
あと、この頃来日もしてるんだけど当然行けるわけもなく、2002年のサマソニで来た時にガンズ見る為だけにサマソニ行ったもんね。

―ガンズは周りに好きな人いました?
いや、中学・高校の時は自分の好きな音楽や映画の話で盛り上がる事が出来なくて。だから大学入って映画研究会に入ったんだよね。僕、映画も同じくらい好きだったから、大学のサークルだったら好きな奴おるだろう、と思って。で、修道大学の映画研究会に入ったら2コ上の先輩に横川シネマ支配人の溝口さん、その上の先輩に〈Hybrid Boogie〉のDJの小松さんがいて。僕、大学受験の頃にはしばらく音楽から遠ざかっていたんだけど、いざ受かって入った頃には(世の)音楽が全然違うことになってて。「UKとかエライ事になってるじゃん」みたいな。だから小松さんにめっちゃCD借りて色々教えて貰ったもん。その頃何を借りたか今でも覚えてるよ。
―え!何借りたんですか?
Iggy PopThe BreedersThe Sundaysとか。この辺も(10曲に)入れようか迷ったんだけどね。ほんと映画も観まくりつつ、音楽も聴きまくる生活だった。で、ちょうどこの頃市内にタワーレコードが出来てね、よく行ってたよ。初めて輸入盤を買ったのもタワレコかな。その流れで次のPrimal Screamに出会うっていう。


―来ましたね。Primal Screamの「Movin’ on Up」。
大学に入ってからは音楽雑誌を買うようになって、ちょうどその時が年末だったのかなあ。CROSSBEATか何かが「今年の1曲」的なベスト企画をやってる号があって、みんながプライマル挙げてたの。覚えてるのは小山田圭吾が挙げてたこの曲なんだけど、他にも誰かが『Higher than the Sun』を挙げてたり、とにかく絶対プライマルが入ってて、これは聴かないと、と思ってすぐタワーでCD買ってきて。でも正直、最初聴いた時は良いのか悪いのかよく分かんなかった。これってロック?何なの?みたいな違和感があった。
―『Screamadelica』ってそうですよね。
俺らが当時聴いてた所謂エイティーズ(80s)の音楽って分かり易いほどポップなやつが多くて、どうしても(自分の中に)入って来やすかったんだけど、90年代に入ってそうじゃないやつも出始めて。でもいま思うと『Screamadelica』が一番好きなアルバムかもしれない。
―当時の情報源って雑誌のほかに何があったんですか?前のダイ(DJ DIET)さんのインタビューでBEAT UKっていうテレビ番組の名前が出てきたりしたんですけど。
BEAT UK観てたねー。あとミュートマ(ミュージックトマト)とか。それで言うと、中学生の頃はベストヒットUSAとかMTVとか週に何本か深夜に音楽番組やってたからね。それがきっかけで知るアーティストとかもいたし。渡辺美里とかもそれで知ったからね。最初にも言ったけど、中学生の頃の僕の情報源のメインってビルボードのチャートだったもん。タイトルの横に記載がある、何週チャートに入ってるかの数字を見て、それが多いアーティストをチェックしたり。「こいつすげー長い事入ってるじゃん」みたいな。チャート分析だよね(笑)。
―確かに分析ですね(笑)。話は変わるんですけど、映画研究会としての活動はどんな感じだったんですか?映画撮ったりしてました?
そうだね。。。僕は撮ってないけど(笑)、周りは映画撮ったりしてた。サロンシネマとかの映画館借りてこっちがセレクトした作品で一日上映会やったり。あと、他の部員がそれぞれ市内の別の映画館でバイトしてて、僕も誘われて当時の東映でバイトを始めて。市内の映画館の入館がタダになる身分証貰えるの。それ使って3日に1本位のペースで観てたね。
―その頃観た中でベストな作品ありますか?
んー。。。その頃はオシャレな方向に走っちゃったからなー。フランス映画とかのちょっと小洒落たやつになっちゃうかなー(笑)。でも何だろ。あ、でも音楽絡みで言うと『ポンヌフの恋人』かな。(これ撮った)レオス・カラックスって当時まだ若かったと思うよ。出てきた時もアンファン・テリブル(恐るべき子供たち)って言われてたし。この作品でカラックスが日本でも知られるようになったと言うか。で、劇中で主人公が走り出すシーンでデビット・ボウイの「Time will Crawl」がかかるんだよ。それがめっちゃカッコいいシーンなのよ。
―この頃って将来音楽の仕事がしたいな、とかぼんやり考えてたんですか?
いや、音楽よりかはどっちかというと映画を作る仕事がしたかったかな。(映画の)最後のエンドロールあるじゃん。あれにいつか名前が載りたいなー、とか考えてたよ。だから就職活動も映像関係しか受けてなかったもん。「絶対受かんねえだろ」と思いながらも。なんなら就職したくなかったからね。ダメ学生だね(笑)。


―4曲目はピラニアンズの「キュッキュキュパパ」。これは大学卒業の頃ですか?
いや、まだ在学中だね。映画と音楽漬けになってた頃。映画研究部の上映会イベントのフライヤーかなんかを配って回ってた時に、ステレオタイプっていうアパレルのお店で働いてた中村道生っていう人に会うの。実はその人普段からライブやイベントとかでしょっちゅう見かける人だったんだけど、その人が広島FMとRCCで深夜番組を持ってたのよ。で、自分らのイベントの相談をしたら「じゃあ番組出てみなよ。」って言われて、『アッシュ』ていう当時RCCが深夜にやってたテレビ番組の中でイベントの宣伝をやらせて貰うっていう。そこからそれを機に、中村さんに付き添いみたいな感じで色んな場所に連れてってもらうようになって。
そしたらある日、中村さんに「お前CRJ(※1)って知ってる?」って聞かれて。

―おお!CRJ!
そう。そのCRJの広島版をやりたいから、ちょっとお前音頭とってやれ、って言われて。で、とりあえず音楽好きの人を集める必要があったから、ライブハウスとかで色んな人に声掛けるところから始めて。その中にキムラミチタとかもいたんだけど(笑)。そのうち事務所が要るねってなって、中村さん経由で借りる事が出来たのが夢番地(関西・中四国を拠点にしているコンサートプロモーター)の事務所(笑)。そこに月一集まって話し合いとかやるんだけど、やりにくいのなんの(笑)。で、CRJはチャートを作るのがメインの仕事だったから、中村さんに付いていくラジオ局とかで新譜のサンプル(当時はカセットだったとの事)やタワーとかに置いてあるサンプルCDや「bounce」を貰ったりして、それを元に作ってたね。そしてそれを中村さんのラジオ番組で発表するの。でもそれだけじゃ露出が少ないから、「Wink」っていう広島のタウン情報誌で丸々1ページ貰って、その月のレコメンド盤と一緒に紹介してた。その時に(CRJとして)イベントで初めて呼んだのがピラニアンズ。
―へえー。当時って個人規模の場合どうやって呼んだんですか?今みたいにメールとかないですもんね。
最初は中村さんが間に入って、その時のダーウィン(当時のピラニアンズの所属レーベル)のスタッフを紹介して貰ったと思う。ただね、最初に呼んだときはまさかの「ピアニカ前田さん骨折」で中止になるっていう(笑)。
―え!?中止ですか?
そう。で再度2回目に挑戦した時はOTIS!でやったの。大変だったけどね。
(ライブ写真を見ながら)このウッドベースとかもどうやって運んでいいか分からなかったからね(笑)。とりあえずジャンボタクシー呼んで、みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

(石塚さんの招聘で、ピアニカ前田さんがピラニアンズで初めて来広した時のOTIS!の壁サイン)

あと、その頃テクノ・スープっていうテクノのイベントを始めてね。それまで広島にテクノのイベントが無かったから。で、CRJの一個下のケンイシイ好きの後輩に「お前DJやれ」って言って、2人でターンテーブル1台ずつ買って。自分のは買った直後にそいつに貸すっていう(笑)。それが返ってきたの数年後だったよね(笑)。

(※1 CRJ…カレッジ・レディオ・ジャパンの略称。1979年にアメリカで始まった、全国の大学生が運営するラジオ番組独自のチャートを集計したメディア(CMJ)の日本版。本国アメリカに倣い、メジャーのチャートに支配されない、大学生独自の音楽動向を反映するもの、というコンセプトで日本各地で発足した。)


―5曲目はフィッシュマンズの「いかれたBaby」ですね。
これもCRJ流れで知ったうちの一つかな。フィッシュマンズは出す度にチャートに入ってた記憶があるね。ライブもしょっちゅう行ってたんだけど、まあ人が入ってないのよ。
―そうなんですか?今から考えると何か信じられないですね。
フィッシュマンズって今でこそ神格化されてるけど、当時は人気なんて無かったからね。熱心な音楽好き以外、周り誰も知らなかったもん。
そういえば一回だけ夢番地の人に佐藤(伸治)さんを紹介して貰ったことがあって。「(こちら)広島でいつも応援してくれてるCRJの石塚君」みたいに上手い事紹介してくれるんだけど、(佐藤さんは)「イヤー。でも広島は人入んねえからなー」みたいな事言われたり(笑)。
でも、フィッシュマンズのライブは良かったねー。あんなライブそうそうないよ、ほんと。


―6曲目はBjörkの「Joga」。
これねー、東京でやった2回目のフジロックで見たんだよねー。
パフォーマンスがもう最高過ぎて、見ながらガチで泣いたやつ。僕、Björkは何回も見てるけど、結局この時のが一番かも。最初に見たっていうのもあるかもだけど。

―へえ、そんなに良かったんですね。この頃ってもう大学卒業した後ですか?
そうだね。結局、卒業しても就職せずにフリーターになったの。バイトで入った広島FMでの仕事だけじゃ食べていけないからタワーレコードでも働いて。
―洋楽が死ぬほど売れてた時代ですよね。
そう。ほんとに売れてたね。今じゃ考えられないけど、俺、タワーの「洋楽のシングル」担当だったもん。
―シングルで担当?凄いですね。。。
シングルだけで売り場ガッツリ貰ってたからね。まあドカンと売れるのはOASISとかだけなんだけど、入荷したら「来た来た!」みたいな感じで一気に50枚とか陳列して。でもタワレコ時代に一番ハンパなく売れた記憶があるのはマライア(・キャリー)かな。入荷して陳列した瞬間からお客さんが持ってくるのマライアばっかり、みたいな(笑)。あと覚えてるのはThe Cardigans、日本で言うとスピッツとか。とにかくCDは売れたよね。
あとタワーでよくやってたのが、今後発売になる新譜の情報が入って来るから、自分用にレコード発注したりとか。で、いざ入荷があると、他のスタッフから「石塚さんのめっちゃ入って来てますよ」って言われて、見たらそれだけで数万とかいったりしてて。


―7曲目は阿川泰子の「Skindo le-le」。またちょっとガラッと変わりましたね。
もうね、時代はアシッド・ジャズですよ。この頃はタワー(レコード)では最新の音楽を押さえながら、中古レコード屋に行ってはこの辺のジャズとかブラジルモノとかを漁ってたね。で、夜はクラブに遊びに行く、みたいな。今はもうないけど、昔、紙屋町にウッディ・ストリートっていうライブハウスがあって。途中からクラブになったんだけど、そこに行けば誰かに会える、みたいな感じの場所だったね。ただね、俺たちは中に入れなかったの。お金が無くて。だからいつも入り口近くの自販機でビールを買って、ダベリながら飲むみたいな感じだった。で、中から誰か知り合いが出てきたり、友達がやって来たりするのを待ってたの。
―若者らしいエピソードですけど、最高ですね。
広島FMとタワーの掛け持ちをしながら2年位そんな生活をしてたのかなあ。そしたらある日、さっきも登場した中村道生から「福岡に来ないか?」っていう誘いを受けて。当時彼は福岡のFM局で働いてて、そこのADが足りなくなったらしくて。で、その時初めて、「よし。ラジオの世界で食っていくか」っていう踏ん切りがついたというか。もう腹をくくったよね。その後、すぐにタワーに退職を申し出て、その1か月後にはもう福岡にいたからね。
―早い!
移動の日も車で福岡まで行ったんだけど、明け方に向こう着いてそのままFM局を見学させて貰って。設備とかが広島と全然違ってて、相当びっくりしたもん。どこから何の音が出てるのかさっぱり分からなかった。現場のスピード感も早くて。
で、当時土曜の朝6時位の生放送番組を持たせてくれて。そこで初めて選曲をやらせて貰って選んだのが阿川泰子の「Skindo le-le」だったの。他にも色々かけたんだろうけど、この曲だけ覚えてる。

―じゃあ、石塚さんの歴史的な1曲ですね。
やっぱ人生で初めての選曲じゃん?ラジオで自分の好きな曲かけられるっていう。それまで散々音楽聴いてきて、自分CDもレコードもたくさん持ってますよ!っていう中で。当然気合い入れて選曲したんだよね。訳も分かってないまま(笑)。で、この曲とか爽やかで土曜の朝にもピッタリじゃんって思って。何ならこんな曲誰も知らねえだろ?みたいな感じで(笑)。
そしたら実際蓋開けてみたら、終わった後にディレクターにクソ怒られるっていう。

―え?何でですか?
僕ね、この時ディレクターに言われた一言が未だに残ってて。「お前、選曲は趣味じゃないんだぞ」っていう言葉。ほんとあれからは選曲は趣味ではやんない、って決めたよね。


―8曲目はAsylum Street Spankersの「Monkey Rag」。これアメリカのバンドですか?
そう。これ2003年位かなあ。もう広島に戻ってきて仕事も始めてて、その頃に夢番地の人たちと一緒にテキサスのオースティンでやってるSXSWに行ってきたの。で、ライブの合間の深夜に会場の外のスタンドでホットドッグ食ってたら、いかにもテキサスな感じの髭もじゃのオジサンに声掛けられて。英語分かんなかったんだけど、「お前日本人か?日本のどこから来たの?」みたいな事聞いてくるわけ。で、広島から来た事を伝えると、「俺今度広島に行くんだよ」って言われて。「いや、絶対嘘でしょ」と思いながらも、そのオジサンがやってるっていうバンド名を紙に書いて貰ったの。Asylum Street Spankersって書いた紙を渡されて、「おお~、センキュー」みたいなやり取りをしただけだったんだけどね。で、帰国してその事なんかすっかり忘れてた頃に、たまたま(クラブ)クアトロのマンスリースケジュール見てたら「Asylum Street Spankers」って載ってて。「何か見たことある名前だなー…あ、そう言えば!!」って家帰って探してみたらその時の紙が出てきて、「あのオジサンじゃん!本当に来るんだ!」ってなった(笑)。
―凄い話ですね(笑)。
で、ライブ当日に会いに行って、紙見せながら話したら「ハイハイハイあの時の…」みたいな感じになって。何となく覚えててくれたのね。丁度SXSWで逢ってから4か月後位の話。そんな事あるんだ、と思ったよね。
―偶然が重なってますよね。
また丁度その時のクアトロの店長がこういうジャグ系のバンドが好きでね。その店長じゃなかったら彼らも来てなかったかも知れない。でもホントこんな感じのアーティストよく来てたよ。バンバンバザールとかしょっちゅう呼んでて、来る度に集客増えてったもんね。その流れでSAKEROCKも来たし。


―9曲目はBUMP OF CHICKENの「ダイアモンド」。これはちょっと意外ですね。
これはね、仕事にちょっと嫌気が差してた頃で、「もう辞めよっかな」みたいに思ってた時にバンプが丁度出てきて。こんなバンドが出てくるんだったらまだ面白いかも。と思った記憶がある。
僕、音源よりもライブで観たのが最初だったんだけど、ライブももの凄く良くて。MCとかも、ちょっと青臭い感じなんだけど、それがめっちゃ良いのよ。

―数ある歌ものバンドの中で、バンプに引っ掛かったのは何か理由があるんですか?
歌詞かな。僕、(仕事で)選曲するときも歌詞ってそれまであんま重視してなかったから。それがバンプに出会って、歌詞もきちんと考慮して選曲しないとダメだな、と思った。
―ちょっと「天体観測」聴いていいですか(笑)?(ここで無性に聴きたくなった「天体観測」を流す)
これは何回聴いても飽きなかったなー。で、当時持ってた夕方のラジオ番組でこの曲を推す、って決まって。毎月パワープレイ的な曲を決めて頻繁にかけるんだけど、この曲は毎日どころか1日に何回もかけてた。普通は考えられないんだけど、平気で1時間に1回かけてたからね。それでも飽きなかったね。
―当時本当によく流れてましたよね。この頃のバンプエピソードって何かあります?
キャンペーンでメンバーが皆で番組に遊びに来たことがあって。で、何かでメンバーをもてなそうと思って、何故かFM局の
スタッフを何人か集めて、メンバーの前で皆で「天体観測」を歌った事がある(笑)。オンエアで曲をかけながら、スタジオでは俺らがそれに合わせて歌う、っていう。今にしてあんな事よくやったな、って思うよね(笑)。

―それメンバーの反応はどうだったんですか?
皆うつ向いてたね。「恥ずかしいです」って言って。たぶん皆まだその時の事覚えてると思うよ(笑)。
僕、今でも若手のバンドがデビューするってなると、ついバンプと比べてしまうんだよね。それは何でかって言ったら、彼らはインディーズの時から既に名曲をいっぱい持ってて。インディーズ時代のアルバムからもうめちゃくちゃ良いの。やっぱりそうじゃないとメジャーでやっていけないんだなと改めて思ったよね。メジャーにいったからって、急に良い曲が書けるわけじゃないもんね。
こういうバンドをもっと皆に紹介したい!って思ったバンドだね、バンプは。

―「Skindo le-le」の時とは大違いですね。
いや、成長しましたよ私も(笑)。リスナーに届けるのは「Skindo le-le」じゃなくてこっちだ!!ってね。


―最後の10曲目はフランク永井の「13,800円」。これは…渋いですね。
昭和32年の曲だね。僕、今RCCラジオで「広島歌謡曲ナイト」っていう番組を持ってて。もう5年目になるんだけどね。昭和縛りで昭和の名曲ばっかりかけるっていう番組。昭和縛りだからメールもFAXも一切なしで、ハガキだけでリクエスト受け付けてるの。で、これが結構来るのよ、年配の方達から。(実際番組に届いたハガキの束の写真を見せてもらいました。)ね、時代感じるでしょ。
―凄い。これ、2018年の話ですもんね。
で、ある方のリクエストがこのフランク永井の「13,800円」だったの。それでRCCにあるレコード聴いてみたらめっちゃ良くて(笑)。「なんだこれ。めっち ゃやべえじゃん」って。何回聴いても 飽きないのよ。何か音の雰囲気も含めて、当時の空気がそのまんま曲に入ってる気がして。日本がこれから盛り上がっていく時代の空気というか。で、調べてみたらこの「13,800円」って当時の大卒初任給の平均なのよ。
―僕も調べたんですけど、歌詞が凄く良いですよね。こんな少ない給料だけど、その中で何か楽しい事や幸せを感じる事を見つけていこう、みたいな事が歌われてるんですよね。
この番組の影響もあって、最近はどっちかっていうか過去の音楽に遡って行ってるんだよね。でもほんと、昭和歌謡っていい曲まだ沢山あるんだよね。

―若いリスナーからのハガキって来たりするんですか?昭和歌謡マニアの方からとか。
若いリスナーからのは殆ど無いかなあ。僕らの親世代というか、ほとん ど我々の人生の先輩方からだね。でも、リクエストの曲に絡めて自分の若かった頃のエピソードを添えて送って来る方とかいるんだよ。ほんと音楽には人それぞれの思い出が詰まってるんだなあ、って改めて思い知らされたよね。それはいつの時代にしてもそうだもんね。僕の阿川泰子にしても(笑)、山岡(インタビュアー)さんのナンバーガールにしても。それがある人にとってはバンプでありフランク永井であり。その曲を聴いたら当時を思い出すっていうね。
―何か良い感じに纏まりましたね(笑)。

◆石塚充(ラジオ番組ディレクター)
1972年広島生まれ。本通を通学路に広島国泰寺高校へ通い、同級生より1年多く勉強して広島修道大学に入学。在学中よりラジオ局でAD、映画館でモギリ、チャイショップで料理とアルバイト三昧の日々を送りながら、夜はクラブに通う。就職氷河期に無事卒業し、タワーレコード広島店でのバイヤーとラジオ局の2刀流でフリーター街道を走る。お呼びがかかったエフエム福岡でラジオの番組製作にどっぷり漬かる。広島に戻ってからフリーのディレクターに。2010年に番組製作などを行う「合同会社082」を設立。広島エフエムとRCCラジオで番組製作、テレビ番組の音効などを中心に行っている。