スマホとぞうきんX


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WE ARE (NOT) X〜ヘルニアの夜〜(※今回は番外編X回です)

X JAPANに関するドキュメンタリー映画『WE ARE X』を深夜のシネマコンプレックスに観に行った。3年前マディソンスクエアガーデン公演のパブリックビューイングを、同じようなシネコン観に行ったこともあったが、そういえばあの時は観客がみなライブの終盤座席で「Xジャンプ」をしていた。例えこの映画が盛り上がったとしても、今回はジャンプはできない。僕は今、腰に重い椎間板ヘルニアを患っているからだ。

『WE ARE X』はバンド「X JAPAN」のドキュメンタリーといううより、ドラマーでピアニスト、作詞作曲を担当しバンドを率いる「YOSHIKI」個人の物語だ。ヘヴィメタルが、クラシックが、ヴィジュアル系がという音楽に関する話よりも、YOSHIKI個人の人生について強くフォーカスされている。

映画では、幼少期に父が自殺し、クラシックピアノだけでは表現できない「哀しみの爆発」をドラムにぶつけたと云うエピソードから、それ以降YOSHIKIのすべての音楽が「寂しさ」「喪失」「痛み」から発生していることが説明される。X JAPANの曲は誰かを無根拠に励ましたり、恋人たちによりそったり決してしない。つまりポップミュージックではない。例えば、小沢健二「流動体について」がMステという大衆的な場所で奏でられようと、その曲は「うさぎ」他の著作に通じる現代に対する「批評」であり「哲学」で、決してポップミュージックではないように、YOSHIKIの音楽もまた一度たりともポップミュージックだったことはない。結果的に大ヒットした曲であっても、その音楽はYOSHIKI個人の人生についての永遠の問いかけであり、つまりは「ART OF LIFE」と呼ぶべき何ものかだと思う。

本作の監督はスティーヴン・キジャック。英語の映画であり、HIDEの死について語られる言葉も英語。海外のニュース映像の引用からは「Kill himself」「Suicide」という言葉が聞き取れ、それは少なくとも日本の報道よりも強い表現だし、ショックを受けた。HIDEはとてもクールな存在だった。ポップスターとしての可能性をX JAPANのメンバー中例外的に持ち合わせ、ソロ名義hideとしてのシングル楽曲の多くはまさしくポップミュージックであり、枚数を重ねるたびにそのポップさは高まった。でありながら、YOSHIKIそしてX JAPANというある種カルトなバンドに対しては強い忠誠心があり、TOSHIのミュージカルへの参加や洗脳、解散に強く反対したのもHIDEだった。

一方のTOSHIは、HIDEと比べるとポップさはなく、かといってYOSHIKIのような美学を持ち合わせているようには見えない。洗脳についても、「まさか」というより「そうなるだろうな」という印象がある。マーティン・スコセッシの映画『沈黙』的に言うなら、TOSHIはまずX JAPANからMASAYAに「転び」、そのあとMAYASAから再びX JAPANに「転んだ」わけで、キチチジローのような弱く身勝手な人間と言える。少なくともHIDEのようなファンに対するプロフェッショナルさは持ち合わせていない。

しかし、映画の中で証明されてしまうのは、X JAPANにとって最低限「誰」が必要なのかだ。HIDEの目線で考えると、これはとても悲痛な結論となる。まずは1997年の解散時、TOSHI脱退直後を考えてみたい。洗脳を経てTOSHIの脱退が決定的になった後、YOSHIKIとHIDEはTOSHIではない別のボーカリストを立てて、X JAPANを再結成しようと模索していたが歴史的にそれはかなわなかった。式にすると以下だ。

YOSHIKI + HIDE = 復活できない = TOSHIの不在(1997)

さらに、その直後HIDEは1998年に急逝してしまう。これにより、再結成のプランは完全に消えてしまう。

YOSHIKI = 復活できない = TOSHI& HIDEの不在(1998)

そして、2007年にHIDE不在でX JAPAN復活。

YOSHIKI + TOSHI = 復活 = HIDEの不在(2007)

ここから導き出されるのは、「X JAPANはTOSHIなしでは決して復活できず、しかしHIDE不在でも復活ができた」という客観的事実だ。熱心なファンには異論はあるだろうし、他ならぬ僕自身がHIDE好きなので今まで気付かなかったが、「X JAPANに必ずしもHIDEは必要条件ではない」ということが映画の中で明かされてしまっている。誰よりもX JAPANの復活を願ったHIDEこそが絶対の必要とはならず、TOSHIこそがX JAPANには必要だった。

一緒に映画を観ていた妻は上映後、「HIDEはたぶん、TOSHIなしにX JAPANを復活させないように、亡くなったんだよ」と言った。一瞬、暴言がすぎると思ったが、YOSHIKIが常に「死の意味」を追い求めるように、HIDEの死が事故や自死を超えて意味を持つなら、今こうして復活できた新しいX JAPANのために死んだと考えることも確かに可能だ。HIDEにとって超えられない壁がTOSHIであり、唯一無二のボーカリストでありながら、音楽以前の存在「幼なじみ」であるTOSHIがYOSHIKIには必要だった。そう考えるとHIDEが不憫でならないが、そういうことではないのだろう。生と死、その意味を様々な角度から考えさせられる映画であり、X JAPANとは、YOSHIKIとは常にそういうものなのだ。

ところで僕にとっての映画の見所は別にもあって、それは頸椎間板ヘルニアや腱鞘炎に悩まされるYOSHIKIの姿だ。腰と頸椎では作用は異なるがヘルニアが神経を圧迫し、腕や肩もしくは尻や脚に痛みを走らせる意味ではほぼ同じ。ブロック注射などの治療や医師による診断、ステージ裏でのストレッチなど、主にヘルニア由来のシーンは、ライブの緊張感を超えて「痛み」による一体感を感じてしまった。痛みを伴い、死を考えること。

Give me some more pain.

(ZINE「ひめとまほう作詞集〜ヘルニアの夜〜」より再録)

一人でドラム&ピアノ演奏=YOSHIKI

相対性理論カバーヴィジュアル系アレンジ、ラストはXジャンプ

デデマウスREMIX、途中からTOSHI登場してX

detune.カバー、ピアノコードがENDLESS RAIN化し、ピアノ破壊

メタル+エレクトロニカのMIXTAPE、コードがENDLESS RAINな曲「YOSHIKI」28:00過ぎスタート

『破滅に向かって』TOSHIの煽り声でブレイクコアをつなぐDJ

DJまほうつかい無敵バンド(X JAPANのコピバン)の記録映像