私のミュージックポートレイト ~ Vol.07 (HFM / 屋形英貴 編)


気付いたら最新回から1年経ってました(笑)、広島の音楽人を紹介するミュージックポートレイト、久々の更新です!!前回のボンバー石井さんからご紹介頂いたのは、広島FMのコンテンツ本部で部長を務めていらっしゃる屋形英貴さん。若い方はご存じないと思いますが、その昔『夕刊ラジオV(ファイブ)』~『夕刊ラジオDX(デラックス)』という夕方の帯番組のパーソナリティを長年務めていらっしゃった、キャリア30年に渡る広島メディア界の大大先輩です。

普段は絶対聞くことのできないメディアのお話も飛び出すメチャ面白いインタビューになっております!!

屋形英貴の10曲

1, 高英男 / 幸福を売る男

2, 岡林信康 / くそくらえ節

3, 吉田拓郎 / 線香花火

4, MMP / スーパーキャンディーズ

5, Yellow Magic Orchestra / テクノポリス

6, Penguin Cafe Orchestra / THE ECSTASY OF DANCING FLEAS

7, The Style Council / My Ever Changing Moods

8, Elvy Sukaesih / Dangdut Reggae

9, 鈴木祥子 / Swallow

10, エレファントカシマシ / 悲しみの果て

―では早速1 曲目を。高英男さんの「幸福を売る男」ですね。

ウチの両親が二人とも歌が好きで、特に好きなタンゴやシャンソンがよく家で流れてたんですね。そ
の中で子供心に聴いて一番最初に良いな、と思ったのがこのシャンソンの日本語カバーだったんで
す。時代的にも戦後の高度成長期真っ只中で、ラテン音楽も流行ってた頃だったんだと思います。
僕は山口県の岩国で育ったんですけど、米軍基地がある関係でいわゆる西洋文化が身近にある
感じだったんです。同級生の家もダンスホールを経営してましたし。


―じゃあ普段から屋形少年には音楽自体が身近にあったんですね?


そうですね。家にはこういったイージーリスニングを編集したオムニバスのレコードが何枚かあって。そのシリーズを順番に取ってかける中で、この曲が一番印象に残ってました。
ジャケットを開いて、子供心にこの歌詞を見ていくと、滑稽なんだけどどこかに寂しさみたいなものを
感じたんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕のヒネクレ感みたいなものの原点もこれだったような気がします。昔からなんですけど、ただただ
ハッピーなモノに対しては冷めた目線で見てるというか。ポジティブなモノの中に影がある事に惹か
れてたんじゃないかな。この原曲が生まれたフランスは民族的にはラテン民族なんですけど、フラン
ス特有のペーソスが混じってるというか、そんな複雑さがあるんですよね。

―確かに哀愁はひしひしと感じますね。

でもこの頃って、普通のポップスや歌謡曲も流れてた頃だと思うんですけど、そっちには惹かれなかったんですか?

当然それも聴いてましたし好きでしたよ。TV で衝撃を受けたのは確か『しゃぼん玉ホリデー』に出て
たザ・タイガース。「シーサイドバウンド」を飛び跳ねながら歌う姿を見てた記憶がありますね。僕が
物心つく前には和製ポップスが全盛期を迎えてたと思うんですけど、音楽として初めて和製ポップ
スのようなものに触れたのはグループサウンズが最初だったんじゃないかな。

https://www.youtube.com/watch?v=NdEXkdC_TRg


―2 曲目は岡林信康の「くそくらえ節」です。この曲と一緒に頂いたキャッチコピーに”反体制小学生 “とありますが…。

実はこの曲今日初めて聴くんです。

ーと、いいますと?

この曲、今まで歌詞でしか見た事なかったんです。
小学生の頃、すごくイヤイヤだったんですけどピアノ教室に通ってて、そこに岡林信康の楽譜集が
あって、その中にこの曲が載ってたんです。
で、この歌詞の中ですごく印象に残った一節があって、当時の天皇陛下の事を最初は『天皇陛下は
神様だ』って歌ってるんですけど、最後の節で『天皇陛下もトイレに入れば紙に頼ってる』っていう皮
肉めいた一節があって。小学生ながらにそれが痛快だったんです。それで好きになりました。

―なるほど。さっきの”反体制”というキャッチコピーと関わってきそうですね。

時代もあるんでしょうど、当時自分の母親含め、周りの大人たちにリベラルな人が多かったんです。
母親は抑圧される事が嫌いな人で、常に自由でありたいと思ってたタイプの人間でしたね。上から
言われた事をそのままやるような人じゃなかったですから。ベトナム戦争反対のデモにも参加してま
したし。

―なるほど。屋形少年も少なからずその影響を受けたと。

小学校の先生に対しては何かそんなところがありましたね。成績もそこそこ良かったし、別にグレて
たわけでは無いんですけど、教師の言う事をそのまま鵜呑みにするのは絶対にしなかったです。常
に「この教師はどういう考えをしているんだろう」っていう、値踏みみたいなことをしてましたね。
―かなりませてたんですね。
「とにかく大人の言う事を聞け」みたいな教師には徹底的に反発してました。抑制とか抑圧に対して
抗うのがカッコいいと思ってましたから。特に深い思想とかはなかったんですけど。先生達からした
らかなりイヤな生徒だったでしょうね(笑)。

―色んな物事に対して少し距離を取ってみている子供だったんですかね?

まあ結局は弱虫だったんだろうなあと思います。そこにある集団に飛び込んで行こうとせず、人間
関係とかでも少し観察してたりする。なんかイヤな奴ですよね(笑)。


―3 曲目は吉田拓郎の「線香花火」です。

これはさっきの岡林信康の流れでフォークが好きになって色々聴いてた頃ですね。同時期に『オー
ルナイトニッポン』とかのラジオも好きでよく聞いてました。で、その頃のラジオでMorris のギターの
CM がやたら流れてたんですよね。そのままMorris のウエスタンギターを親に買って貰って。当時
はよくギターをかき鳴らして歌ってましたね。

―その中でも拓郎さんに惹かれたのは何故でしょう?

吉田拓郎さんが一番しっくり来たんですよね。歌詞にメッセージ性もあるし、楽曲のバリエーションも
豊かで。
例えば「」っていう曲はボサノバでしょう?
で、「線香花火」は今で言う〈エモ〉だと思うんです。フォークなんですけどフォークじゃないというか。
サビで転調したり、コード進行が普通じゃない所とか、歌詞も凄く抽象的で、思春期の自分にとって
そこが凄くカッコイイと思えたんですよね。自分だけにしか解釈できないカッコよさ、しかも「このカッ
コよさが分かる俺(がイケてる)」みたいな(笑)。

―分かります(笑)。

拓郎さんは一番最初に好きになった所謂「アーティスト」ですね。「拓郎の事が好きな俺が好き」って
いうのも込みで(笑)。

―それも分かります。思春期特有の(笑)。実際にライブを観た事はあるんですか?

大人になってからですけど。社会人になりたての頃だったかなあ、〈つま恋〉の2 回目を友達と観に
行きましたね。何か眠かった思い出がある(笑)。
でも拓郎ファンって概ね自分の事が好きですからね、皆ギター持ってきてそこらじゅうで歌ってるの
が印象的だったですね。


―4 曲目はMMP の「スーパーキャンディーズ」ですね。

これはね、シンプルな話ですよ。当時からヒネくれたヤツだったんでやっぱり恋愛も下手くそで。中
学3 年生の頃に好きだった女の子に初めてラブレターを送ったんですけど見事に玉砕で。で、その
1 か月後位にその次に好きだった子に告白して付き合う事になるんですけど、ダブルデートみたい
な事を1 回したくらいで、結局それも1 ヶ月位でダメになっちゃうんです。その子は南こうせつが好
きだったんですけど、「フォーク好きならこれとか聴いた方がいいよ」って言って当時リリースされた
ボブ・ディランの『Desire』を貸したりして。何の反応も無かったんですけど(笑)。

―イイ話ですね~~。

その子のイメージに重なるんですよ、キャンディーズの伊藤蘭が。ちょっとコケティッシュで色っぽい
雰囲気とかが似てて。そもそも自分は歌が好きだったのでアイドルもちょくちょく聴いてたんですけ
ど、もうそっからはキャンディーズ一直線でしたね。
出るレコードは全部買いましたし、当時買いに行ってたレコード店にはスタンプカードがあって貯め
ると持ってるポスターをパネルにしてくれるんですね。それが嬉しくて一生懸命通いましたね。伊藤
蘭のパネルを作ってもらう為に。中3 から高1 にかけてのライフワークでしたよ。

―かなり熱心な活動ですね。

でもそんなキャンディーズともお別れが来てしまうんです。今でも覚えてるんですけど、1977 年の7
月18 日、『夜のヒットスタジオ』を観てたら、「キャンディーズが解散する」っていう話を司会がするん
です。「えっ!?どういうこと!?」って。当時はネットがないから前日の7 月17 日に彼女たちが解
散宣言をしてた事をそこで知って。もうショックでしたね。
ただ、少し前に8 月に彼女たちがやるコンサートのチケットを申し込んでたんで。それが初めて自分
のお金で買ったコンサートのチケットで、“本当に好きで観に行った”最初のライブ体験でした。

―実際のコンサートはどうでした?

衝撃でした。カッコ良くて可愛くて。で、その彼女たちのバックがMMP だったんです。当時彼女たち
のマネジメントをやってたのが今のアミューズの大里会長で。キャンディーズを売り出す中でしっか
り音楽性を持たせてたんですね。色んな洋楽カバーとかもやらせてたし、とにかくライブに力を入れ
てた。そのバックを務めてたのがバリバリのロックバンド、しかもホーンが入ったりしてるバンド、って
いう。凄くカッコ良かったですね。今考えると、自分がホーンが入った厚い音が好きなのはここから
来てると思いますね。
で、そのコンサートが2 部制になってて、1 部と2 部の間の転換時にMMP だけが演奏する時間が
あるんです。そこで演奏された1 曲が「スーパーキャンディーズ」で。
僕、翌年に5 万5 千人集めて後楽園球場で行われた最後のライブ、ファイナルカーニバルにも行っ
たんですけど、そこの5 万5 千人全員で歌った「スーパーキャンディーズ」が忘れられないんです。

―エモい話ですね。。。

声枯らし過ぎて4 日間声出なかったですからね。当時の光景は未だに覚えてますよ。まあ当時は
そんな言葉無かったですけど、れっきとしたヲタクですよね。なので今アイドルに夢中になっている
人の気持ちは分かるんですよ。その人にとっては人生の全てですからね、きっと。全てを投げうって
る。語弊を恐れずに言えば、全てを投げ出すのってある意味ラクだと思います。


―5 曲目はYELLOW MAGIC ORCHESTRA の「テクノポリス」です。

これは、高校の時に好きだった漫画家の江口寿史さんが、当時少年ジャンプに連載していた「すす
め!!パイレーツ」で、YMO をネタにした絵を描いてて、「YMO ってなんだ?」ってなったのがキッカケ
ですね。そのまま何の情報も無いままレコード屋に行って当時出たばっかりの『SOLID STATE SURVIVOR』を買いました。で、最初に針を落としたのが1 曲目の「テクノポリス」。
本当に衝撃的でしたね、「これは何だ!?」って感じで。

―YMO をリアルタイムで体験した方はもれなく同じ感想ですよね。

そこから凄くYMO が好きになりました。その後すぐに1st も買いに行ったんですけど、もうその時は
初版は売ってなくて、世界流通盤を買った記憶があります。
当時は家で勉強する時にアナログレコードをかけてたんですけど、歌モノだと集中できなくて。YMO
もそこが丁度良かったんですよね。
でも当時、少なくとも岩国では周りはまだ誰もYMO なんかに注目してなくて。ここでもまた、「YMO
が好きな自分が好き」なんですよね(笑)。実は当時、同じように、さだまさしも好きだったりするんで
すけど、YMO って言う方がカッコいいなと(笑)。

―まだ俺だけしか知らないぞ、と。

当時はもう冨田勲さんがシンセサイザーで音楽を作ってたんですけど、ちょっと前衛的というか、難
解だったんですよね、クラシックの延長線上のモノというか。そこで一気にYMO がポップにさせると
いう。ポップなんだけど深い。アルバムも毎作実験的で必ず違うものを作ってくるし、そういう挑戦的
な姿勢も憧れでしたね。いわゆるアーティスティックなものでは吉田拓郎の次に夢中になったのが
YMO です。


―6 曲目はPenguin Cafe Orchestra の「THE ECSTASY OF DANCING FLEAS」ですね。

高校を卒業してからは大学進学で東京に出るんですけど、当時は代々木上原にあった学生寮に住
んでたんです。岩国出身の人が行くボロボロの寮があって。木造二階建てで、一つの部屋に二段
ベッドがあって、みたいな。

―代々木上原ですか。凄く良い場所にあったんですね。

そう。下北沢まで歩いて行けましたから。で、当時日本で貸しレコード屋が出始めた頃で、下北沢に
もあったんです。当然レコードを買うよりは安いので、通うようになって。借りるモノもある程度チャレ
ンジもできるし。

―当然買うよりはリスク低いですもんね。

で、当時の朝の番組か何かで、長くてタイトルの覚えられない曲が流れたんです。でも聴いた感じ
が全く新しくて。これは聴いた事がないぞ、と。で、そのままその貸しレコード屋に行って借りたのが
ペンギンカフェの2nd アルバム。
歌も入ってないし、構成もいわゆる普通のポップスと違うし、アコースティックをベースにした不思議
なサウンドで。それこそそれまではアコースティックギターなんかはメロディアスでエッジの効いてな
いものしか聴いた事なかったから。同じフレーズがループしたりしてて、とにかく聴いてて心地良かった。

―主張が強くないから聴き流せるんですよね。

学生寮で朝起きる時の音楽として、テープに落として毎朝流してました。この曲かランディ・ヴァンウ
ォーマーの「アメリカンモーニング」(笑)。この曲を聴くと学生時代の朝の寮の風景を思い出すんで
す。

―東京での学生生活は楽しかったですか?

うーん…。当時はコミュ障みたいなものでしたからね。友達が沢山できるワケでもなく。ただ、基本学
生寮に居るんで、そこだけは岩国なんですよね。住んでるとこは岩国。そこから学校行くのに小田
急線や地下鉄を乗り継いで降りた先は東京、みたいな。なので僕の一日の中には岩国も東京も存
在してて。今ひとつあか抜けきれなかったですね。

―サークルには入らなかったんですか?

大学入って、少しだけ「芸能山城組」っていうパフォーマンス集団に所属して、すぐしんどくてやめ
て、そのあと、今で言うイベントサークルみたいなトコに一瞬居たんですけど、「あ、俺はココじゃない
な」と(笑)。途中から少しドロップアウト気味なサブカル軍団の方へ行きました。好きな音楽に乗って
踊る事は好きだったんでディスコとかには時々行ってましたけど、所謂シティライフは送ってないで
すね。


―7 曲目はThe Style Council の「My Ever Changing Moods」ですね。

これは就職してから出会った曲です。僕はマスコミ志望だったんですけど、たまたま受けたFM 東京
の最終試験の役員面接の時に何故か広島FM の方がいて。「広島来る気はないか?」って言われ
て、まあそのまま広島FM に入社する事になるんです。でも僕の場合、諸事情で最初の入社研修を
長いこと東京でさせられる事になって。

―なるほど、いきなり広島じゃ無かったんですね。

そう。しかもその時の条件で”しゃべり”をやらなくちゃいけない、というのがあって。僕は
“しゃべり”なんか全くやりたく無かったんですけど、とはいえ、やらなきゃいけないのでアナウンス研
修を受けたり。
で、その辺りの春頃だったかな、研修で海外アクトのショーケースライブを見学する事があって。ビッグカントリーとかインエクセスが新宿の厚生年金会館とかを使ってやる公演で、その中にスタイルカ
ウンシルがいたんです。
それがもうカッコよくて。今でも覚えてるんですけど、バックヤードで暗がりの階段にポール・ウェラ
ーが座ってて、それがめちゃくちゃカッコ良かった。

―おお、凄いですね。

その時のライブで初めてスタイルカウンシルを聴いたんです。「My Ever Changing Moods」とか最高
でしたよ。
FM ってなんてオシャレなんだ!と思いましたね(笑)。こんなカッコいいアーティストを呼んで自分た
ちでコンサートやって、こんな事が出来るんだ!やっぱりFM 局最高だな、と(笑)。
これが僕の中のFM 局プライドの始まりですね。その時期にFM 局で働く事の自負みたいなものを
植え付けられました。

―なるほど。当時からマスコミが第一志望だったんですか?

でも正直言うとラジオは興味なかったんです。ただ漠然とマスコミに就きたい、という想いで。一般企
業に勤めても日々何をするのか全く想像ができなかったですから。その為にマスコミ専攻がある東
京の大学を受けたのもありますし。なのでアルバイトもマスコミで探して、テレビ局の報道のアルバ
イトをしてました。ただ、ジャーナリズム的なものはしんどそうなので、エンタテインメント的な方に進
みたいと思っていました。


―8 曲目はElvy Sukaesih(エルフィ・スカエシ)の「Dangdut Reggae」です。

これは東京での研修を無事に終えて帰ってきて、広島FM で働き始めた頃ですね、しばらくして、経
験も音楽の知識もある先輩たちと一緒に仕事をしていく中で、自分は何が強みなんだろう、ってふと
考えるようになって。
学生時代に少しだけ入っていた芸能山城組で、ブルガリアンボイスであったり、グルジアの合唱や
日本民謡に触れる機会があったんです。バリ島のケチャやアフリカの音楽とかも。もともと欧米のポ
ップスではない、ラテンとかワールドミュージックが好きなのもあって。

ーなるほど。

そういうのもあって当時『ミュージック・スルー』っていう音楽番組のワールドミュージック担当をやら
せて貰ったんです。で、その番組で流す用に東京・六本木にあるWAVE にレコードを買いに行った
りしてて。
その頃ポニーキャニオンが〈オーバーヒート〉っていうレゲエやワールドミュージックに特化したレー
ベルと提携していて、その中のリリースにエルフィ・スカエシがあったんです。最初聴いた時は「なん
じゃこりゃ!?」って感じで。ダンドゥット(インドネシアで70s頃から生まれた現代の歌謡曲)っていうダ
ンス音楽の歌手なんですが、中近東を感じさせる旋律にダンスミュージックの要素が合わさってる
感じでエキゾチシズムの極致みたいだなあ、と。すぐ好きになりましたね。

ー見事にハマったんですね。

友達とインドネシアまで行ってカセット買いまくったりしてました。インドネシアって音楽の宝庫なんで
すよね。さっきのダンドゥットの他にもヘ世界最古の歌謡曲と言われるクロンチョンや、YMO も取り
上げていたガムランなど。80s に若手ディレクターだった頃はそうやってワールドミュージックにかな
りのめり込みましたね。
何か今聴くとヘンテコな印象なんですけどね(笑)。今回久しぶりに聴いてみたらこんなんだったっ
け!?と思いました。

―ワールドミュージックは日本でもブームになるんですよね。

音楽好きな人達がワールドミュージックに飛びついた時代だったですね。ポニーキャニオンからこん
なのが出る位ですから。時を同じくしてMTV がスタートしてロックがより商業的になる一方で、カウ
ンター的に皆がそういうのを求めてたんじゃないかな、と個人的には思ってます。


ー9 曲目は鈴木祥子の「Swallow」ですね。

鈴木祥子は、若手ディレクターとしてとある番組の選曲担当をやらせて貰っていた頃に知りました。
当時はレコード会社の営業所も広島に幾つかあった頃で、EPIC ソニーの方が僕の選曲を聴いて下
さってたみたいで、たまたまお会いした時に「屋形さん、こういうのも好きじゃないですか?」ってお
勧めしてくれたのが鈴木祥子だったんです。聴いてみたら「嫌いじゃないなあ」位の感じだったんで
すけど(笑)、そういった流れで僕がディレクターと喋り手を兼任した番組を彼女とやる事になって。今じゃ考えられないですけど、広島FM だけの番組で、月2 回彼女が東京から広島に来て収録するんです。

ー時代ですね~(笑)。

で、その番組の中で、鈴木祥子に広島の街をテーマにした楽曲を毎回選曲して貰う、という企画を
やってたんです。彼女に広島を体感して欲しかったので、自分と鈴木祥子が実際にしゃべりながら
広島の街を一緒に歩いて、「この風景に合う1 曲を選ぶ」みたいな。番組がスタジオの中で完結す
るがイヤだったんですね。

―へえ、面白いですね。

Shower the People』という、ジェームス・テイラーの楽曲から名前を付けた番組でした。彼女は洋
楽好きで、70 年代のSSW モノとか大好きだったんですけど、彼女が番組内でかける曲を自分が全
然分からなかったんです。勉強させて貰いましたね。

―実際に一緒にやってみてどうでした?

アーティストの方と一緒に番組をやるのは初めてだったんですけど、とても貴重な経験でしたね。彼
女は内面的な人で自分を追い込むような一面もあったりしたんですね。曲が書けなかったりしてた
時期はいつも暗い表情してたり、ライブも思うようにいかなかったりすると演奏を途中で止めてたり
してました。

―生粋の方なんですね。

番組内で毎週ゲストの人と電話で対談するコーナーがあって、そこで小林武史さんや佐野元春さん
に電話した事もありましたね。小武武史さんは彼女と一緒にビートニクスのバックを務めてた事があ
って、そのご縁で出て頂きました。
で、佐野さんの時は電話インタビューが終わった瞬間に彼女が泣き始めたりして。当時の担当だっ
たソニーの人と一緒になって「よかったね、よかったね。」って泣いてるんです。彼女、元々佐野さん
が大好きだったのもあるんですけど、今想うと佐野さんの一言一言が心に響いてたんでしょうね。た
だ、当時の僕にはそれがさっぱり分かんなかった(笑)。

―ええ!?

自分が今振り返るとその時の佐野さんの言ってた事も分かるんです。当時は鈍感だったんでしょうね。頭でっかちで、心で音楽を聴きいてなかったんだと思います。頭で理解しながら聴いてましたから。鈴木祥子
さんと番組をやってた1 年間で、心に響く音楽というのが分かるようになった気がしますね。


ーでは最後の曲です。エレファントカシマシの「悲しみの果て」ですね。

1992 年から、夕方のワイド番組をすることになって。ワンマンスタイルっていう、自分でミキサーし
て、ディレクターして、自分で喋ってっていう週4 日の番組なんですけど。
当時は日本のFM 各局で、局全体で押し曲をかける、ヘビーローテーションみたいなのが流行り始
めた頃だったんです。
で、僕なんかは捻くれてるからそれが凄くイヤで。要は局から「これをかけなさい」って押し付けられ
るわけでしょ。
そんなん押付けられるものじゃなくて、番組を作る人間が届けたい曲をかけるべきだ、って思ってま
したから。

ー屋形さんらしいエピソードですね。

その頃僕はもうある程度発言権を持つようになってましたから、局の会議とかでもそういったパワー
プレイ方針に断固反対してて。

―おお、凄いですね。

で、そんなある日夢番地の方からエレカシの新作のサンプルCD を貰って、その中にこの曲が入っ
てたんです。
エレカシの名前はもう知ってて、ライブも見たことある位だったんですけど、とにかくこの曲が衝撃的
で。滅茶苦茶カッコいいなと。それで勝手に毎日かけてましたね(笑)。

―それこそパワープレイですよね(笑)。

パワープレイは局が決めた形だけのものですけど、「俺は違うんだぞ」と。「俺は心からこれをかけ
てるんだ」って思ってました。「魂のパワープレイ」って毎日言ってましたから。”俺の”パワープレイな
んだ、という意味を込めて頭に「魂の~」を付けて、毎日毎日。そのうち「エレカシばっかりかけるな」
っていうクレームも貰うんですけどね(笑)。当時は好きな曲しかかけてなかったですから。その中の
象徴的な1 曲ですね。

ーちゃんと中身のあるパワープレイだったと(笑)。
実際にラジオで喋るようになったのって入社何年目からだったんですか?

30 歳からだから、入社8 年目かな。結局それを2000 年の3 月までやるんです、しんどかったです
けどね。やりたくもない喋りをやるのって。まあでもやるからには嘘をつきたくなかったので、、、今思
えばひどかったですよ、色々(笑)。

―どんな感じだったんですか?

基本リスナーからのどうでもいいメッセージとか読まなかったんです。曲のリクエストも無視して、「こ
のアーティストならこっちの曲でしょ」って別の曲をかけたり。メッセージ用のFAX 番号とかも僕は読
み上げなかったですから。送りたい人が自分で調べて送ってこい、みたいなスタンス。
そういえば一回、送られてきたFAX を丸めて捨てた事がありました。わざとマイクの傍でクシャクシ
ャって音を出して。「しょうもないメッセージのFAX 送るんじゃねえ」って(笑)。

ー今だと大問題ですよね。

傲慢だったんですね。常連のリスナーの方の中では、屋形さんの番組にメッセージを送るときは注
意、みたいな共通認識があったと思います。でも、そういうキャラクターの方が求められてるんじゃ
ないかな、とも思ってました。それこそ今の『チコちゃんに叱られる!』じゃないですけど、本当は世
の中罵声を浴びせられたいんじゃないかな、と。今ってどこもなぞらえたような番組しかないじゃな
いですか。

ー時代的に難しいですよね。「何かあったらまずい」というのが前提ですもんね。

本当は全部のメッセージに応えてあげたいんですけどね。ラジオのメッセージってやっぱりリスナー
からのお手紙なんで、それに対する返事がないって寂しいじゃないですか。今この時だからこそのメ
ッセージを送ってくれて、それに対してひとつひとつ真摯に答えていく。で、そんな思いだからこの曲
をかけて/聴いて欲しい、みたいな、そんな番組がしたいんです。やっぱり音楽はメッセージですか
らね。できるだけ良い曲をかけられるといいな、ってそれだけです。


屋形英貴(やかた ひでたか)。別称、YP(わいぴー)。

 

 

 

 

 

1961年山口県岩国市生。上智大学新聞学科卒。

1984年広島エフエム放送入社。AD、ディレクターなどを経て1992年より夕方生ワイド帯番組の

ディレクター兼パーソナリティをスタート。2000年からは金曜昼ワイドの担当に移り、2006年までの

計14年間、自分勝手な選曲で、多くの反感と、一部の共感を呼ぶ。

現在の肩書は、執行役員コンテンツ本部長。いまだに現場にしがみつき、現場から疎まれている。