ある月曜日に書いた原稿。


きょうは仕事の帰りに、広島中央郵便局へ立ち寄った。芽瑠璃堂の通信販売で注文していた、サニーデイ・サービス『「東京」』の20周年記念ボックスを引き取るためだ。
全作を愛聴してきた訳ではない、という意味で、ぼくは決してこのバンドの良いリスナーではないのかもしれない。それでも、ぼくには税抜1万1千円のこの箱を買うための、ぼくだけの理由があり、購入したのだった。
20年前といえばぼくは高校生で、入ってしまった進学校で右往左往した挙句に不登校を決め込み、音楽のことばかりを考えていた。サニーデイ・サービスのことは何かの雑誌で読み知っていたが、彼らの前作『若者たち』のジャケットを見て、聴くまでもなくじぶんには必要のない作品だと思い込んでしまった。
ある日、地元のツタヤのCDコーナーへ行くと、『若者たち』とはっぴいえんどの最終作『HAPPY END』が揃いで陳べられていて、ジャケットの好みだけで後者を選んで買った。当時、はっぴいえんどについてはまったくの無知だったが、このときの選択がじぶんのその後のセンスを確定させたのだと、いまでも信じている。
サニーデイ・サービスと、はっぴいえんどの相関性について考えるつもりはまったくないことを、先に断っておきたい。これはあくまでも、20年前から『「東京」ボックス』を入手したきょうまでの流れへと思いを凝らすために書き始めたテキストだ。
『若者たち』と同様に『「東京」』も聴かずのまま迎えた1997年。茨城大学へ進学すると、まもなくひとりの人物と出会った。島根からやってきていた、石田亮介という、同い年で誕生日が約ひと月違いの男だった。
彼は後に写真家になったが(ぼくのソロ作のほとんどすべて、そして冗談伯爵関連の全撮影を頼んだ)、当時はじぶんと同様に、地方都市から飛躍するべく、何か手掛かりをつかむべく、平静を装いながらもがいている青年だった(東京の大学へ行かなかったことが、互いのその後の人生に結果的に奏功したのだ、と近年ふたりで話した)。
ある日の昼下がり、大学の構内を歩いていると、とつぜん彼から話しかけられた。「コーネリアス好きでしょ? いまからウチに来ない?」ーーぼくはアディダスのスーパースターを履いていた。判る方は、笑っていただいて構わない。
とにかく、こんなぶっぎらぼうな誘い方をしてくる人間が本当にいるのかと呆れたものだが、大学から歩いて1分のところにあった彼の部屋へ、気付くとついて行ってしまっていた。
螺旋階段を3階まで上り、彼の部屋の扉が開くと、棚を埋める、18歳にしては相当な量のCDが目に飛び込んできた。それに、単行本雑誌の類。寺山修司。中原中也。澁澤龍彦。アレン・ギンズバーグ。ジャック・ケルアック。ウィリアム・バロウズ。早川書房のボリス・ヴィアン全集。ぼくの田舎には売っていなかった『米国音楽』という雑誌。思わず負けた、と心の中で呟いた。
人を部屋に誘っておきながら、床には脱ぎ散らかした衣服や、洗わずのまま放置された食器類。ひたすら呆気にとられたが、不思議とその場を後にしたい、という気持ちにはならなかった。デジャヴのような、あるいは古い友人に再会したかのような感覚だった。
父親から譲り受けたという、古ぼけた手回しのミルで彼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、時の経過を忘れ、互いの音楽遍歴などについて語り合った。BGMとして選んでくれるCDが、ことごとく知らないタイトルばかりで、実は話の半分も聞いていなかったのかもしれないが。
彼の所有していたCDの中でも、とりわけ、これから買って聴こうと思っていた(ぼくの地元にはどこを探しても売っていなかった)シュガー・ベイブ『SONGS』の衝撃は忘れられない。
何時間が経ったのか、気付くと辺りはすっかり暗くなっていた。帰途を、借りたCDがたっぷりと詰まった紙袋を両手に提げて歩いていた。袋のなかには、『SONGS』があり、『若者たち』『「東京」』があった。後日、ぼくはお返しに、『HAPPY END』やビーチ・ボーイズ『PET SOUNDS』のCDを貸したのだった。
とにかく石田には計り知れない刺激を貰った。音楽だけではない、くだんのコーヒの件もそうだ(やがて彼もぼくも生豆を買って自家焙煎するまでに至った)、喫茶店、古着屋、レコード屋、可愛い女の子、そして世界じゅうの素晴らしい写真家について(牛腸茂雄の作品集を初めて見せてもらったときの衝撃といったら)。いつもひと足先に何かを見つけてきては、ぼくに薦めてくれていた。小西康陽さんの著書「これは恋ではない」も、最初は彼に借りたし、水戸の銀杏坂にあった好事家のサロンのようなレコード屋<ロック・ボトム>でキリンジのキリン模様のデビューCDを見つけてきて紹介してくれたのも彼だった。とにかく本来は先取されてくやしいはずが、彼の薦めであればすんなりと受け入れられたのだった。
やがてぼくらは、レコードや服など、互いが買った物を共有するようにすらなっていった。これは石田が持ってた方がイイでしょ、前園が持ってた方がイイでしょ、という具合に。
サニーデイ・サービスの『「東京」ボックス』だって、石田が買った物を、石田の部屋で開陳して、ふたりでニヤけるのが筋なのだ、我々としては。
でも、今はそれが叶わない。だからバンドの良いリスナーではないぼくなどが買ってしまったのだ、ふたりでニヤけている絵を想像するために。
いま、ぼくの部屋には彼が買った『はっぴいえんどマスターピース』と、ぼくの買った『「東京」ボックス』が置いてある。
最後にもうひとつエピソードを。
2001年、渋谷のnestで行なわれた関美彦さんとぼくのダブル・レコ発ライヴ(他、対バンがARCH、DJがSmall Circle of Friends)に出演したとき、その打ち上げ会場で、ぼくは曽我部恵一さんと初めてお会いした。曽我部さんは関さんのステージに客演したのだが、サニーデイ・サービス解散後、初めて公の場で演奏するということがトピックとなり、会場は満員だった。
nestの階上、打ち上げが行なわれたバー・フロア。曽我部さんは、この年にミディ傘下のインディーズ・レーベル<ミディ・クリエイティブ>からリリースしたぼくのファースト・アルバム『くらしのたより』を聴いてくださっていて、「ぼくの同じ年齢の時よりも全然凄い」と直々に評してくださった。
ライヴ当日は、上京していた石田を、当然ながら会場に招いた。が、スタッフに頼み込むも、打ち上げに彼は参加出来なかった。このときもまた、曽我部さんに会うべきはぼくではなく彼なのだと思った。後日、曽我部さんとのあいだに先述の会話があったことを伝えたとき、我が事のように喜んでくれた彼の表情を、ぼくはこれからも忘れない。
そして。これからも、と繰り返してしまうけれど、サニーデイ・サービスあるいは曽我部さんの音楽を聴く時には、傍らに、いつも彼の影が寄り添うことになるはずだ。そんな愉しみ方だって、きっと許されるだろう。許して欲しい。
ぼくの<相方史>には、小西康陽さん、新井俊也さんの名の前に<石田亮介>とはっきりと刻まれている。
(写真の中の写真は1997年、水戸市<ババクール>にて撮影)